小原鉄心顕彰会
大垣の街で20年程前から、幕末に活躍された大垣藩の藩老小原鉄心先生を顕彰する会を続けています。
25日(土)に顕彰会主催の記念講演会を開催し、京都の霊山歴史館で学芸員をされている木村武仁先生をお招きして「鳥羽伏見の戦いの実像」というテーマで1時間半お話して頂きました。
大垣藩は150年前、明治元年1月3日、鳥羽街道の伏見において桑名藩と共に、薩長軍と戦い朝敵になってしまいました。
その後、小原鉄心の活躍により明治政府に許しを請い、会津征我の先方として薩長と共に官軍として戦うことになりました。
この事実は当時の状況の中で仕方のない事であったのですが、150年経過した今日でも会津の人々は大垣に対して深い恨みを持っているようです。
三輪酒造は幕末の頃より、小原鉄心先生に初代徳次郎が大変ご愛顧を頂き、鉄心先生のお陰で今日の三輪酒造があることは間違いない事実です。
しかしながら、なぜ幕府方にいた大垣藩が薩長に寝返らなければならなかったのかについて、ずっと疑問に思っていました。
今回の講演ではそのあたりの状況を詳しくお話し頂き、大垣藩だけではなく、関係していた多くの藩が苦渋の選択をしなければならない状況におかれていた事を木村先生は分かりやすくお話頂きました。
いつの時代も、どちらかを選ばなければならない状況に追い込まれる事は必ずあります。
その時に選択を間違える事で後々取り返しのつかない事になってしまいます。
小原鉄心の努力により、明治維新後大垣藩は、明治新政府の下で今日の産業都市へと発展する礎を築いてもらいました。
私達現在の大垣に住む者として、又三輪酒造を守る者として改めて感謝しなければならないと思います。
25日(土)に顕彰会主催の記念講演会を開催し、京都の霊山歴史館で学芸員をされている木村武仁先生をお招きして「鳥羽伏見の戦いの実像」というテーマで1時間半お話して頂きました。
大垣藩は150年前、明治元年1月3日、鳥羽街道の伏見において桑名藩と共に、薩長軍と戦い朝敵になってしまいました。
その後、小原鉄心の活躍により明治政府に許しを請い、会津征我の先方として薩長と共に官軍として戦うことになりました。
この事実は当時の状況の中で仕方のない事であったのですが、150年経過した今日でも会津の人々は大垣に対して深い恨みを持っているようです。
三輪酒造は幕末の頃より、小原鉄心先生に初代徳次郎が大変ご愛顧を頂き、鉄心先生のお陰で今日の三輪酒造があることは間違いない事実です。
しかしながら、なぜ幕府方にいた大垣藩が薩長に寝返らなければならなかったのかについて、ずっと疑問に思っていました。
今回の講演ではそのあたりの状況を詳しくお話し頂き、大垣藩だけではなく、関係していた多くの藩が苦渋の選択をしなければならない状況におかれていた事を木村先生は分かりやすくお話頂きました。
いつの時代も、どちらかを選ばなければならない状況に追い込まれる事は必ずあります。
その時に選択を間違える事で後々取り返しのつかない事になってしまいます。
小原鉄心の努力により、明治維新後大垣藩は、明治新政府の下で今日の産業都市へと発展する礎を築いてもらいました。
私達現在の大垣に住む者として、又三輪酒造を守る者として改めて感謝しなければならないと思います。
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